ラジオ体操もない、長い長い夏休みさ [ナギナギ石切ジャンプ]

トラウトサーモンの刺身を食べたよー。
夏場なので生鮮食品の値引きモノは多少危険かと思いつつ、買って持って帰ったあとすぐに食べたので安心です。味もちゃんとしてた。美味しかったよ。原産国名には「チリ」と表示されていました。奇しくも先日『南米チリをサケ輸出大国に変えた日本人たち』(細野昭雄著)という本を読んだばかりだったのだ。スーパーマーケットに並んでいたサケを見てみると全部原産国チリとなっていました。なるほど、本に書いてあることは嘘じゃなかった。チリからの輸入に頼る日本となったんである。
なぜチリだったかというと、米ソの冷戦の中で、日本の漁獲領域が削減されるであろうことが懸念され、日本はなんとか魚を手に入れたかった。そこでチリにサケを放流してみることにした。チリは、零細漁業で苦しんでいた漁師を助ける方法を模索していた、そしたら日本から打診があった。両者の考えていることが合致したそうな。最初は放流するだけにして、川に帰ってきたサケを獲るという計画だったのだけれど、そのうち養殖技術が進んで、養殖するように計画をシフトしたみたいです。
昨年だったか、チリのコンセプシオンで地震があり、その影響で津波が日本にもやってきていましたよね。コンセプシオンには養殖用のサケの餌を作る工場があるそうです。さらにコンセプシオンといえば、あのチャールズ・ダーウィンが立ち寄った際にも地震があり、隆起した地面、その断層を見たことが、のちの進化論という仮説を作るきっかけにもなったとかなんとか。そんな記憶を喚起しつつ、本を楽しんだ高菜らいすでした。
サーモン、うまうまー。
サケの何が素晴らしいかって、その色と味なのではなかろうか。他のお魚と比べると、生臭さも無いし、食べやすいのだ。見た目鮮やかで食欲も刺激される気がします。ネット上では「サーモン(笑)」とか表記されて、サーモンが好きであることを馬鹿にする方もいらっしゃるときく。サーモンが好きになるのは至極当然のことなのでは? サーモンが好きなことを馬鹿にするなんておかしいぽん。とプンスカしている高菜らいすなのでありました。
しかし暑い時に食べる刺身は、良かった。動物性タンパクを摂取する必要に迫られた夏には、刺身。そのような新体験が高菜らいすの中に構築された今週でありました。お豆腐もいいけれど、動物性タンパクも、食べたくなるのだ。けれども牛や豚の肉は油がちょっと……などと思ってしまう。そこでお魚ですよ! 気を良くした高菜らいすは今日もまた刺身を食べたんでありました(笑) 今日は「ツバス」のお刺身を。ツバスというのはたしかブリの幼魚もしくは若魚のことだったかと。関西ではツバスと呼ぶんだよー。
ブリかあ……。
冬が待ち遠しいな。
バブル期であれば、浜辺ではなく竹やぶか? [フェニックス中華鍋じゃーん]

ペチュニアだと思うよー。パラソルパラソル。
8月になりました。去年は9月中もずっと暑い日が続き、「8月は60日あるのではないか」と疑ったりしていました。今年はどうかそんなことにはなりませんようにと願う高菜らいすです。夜中に雨が降ったり、夕方に雨が降ったりしてくれて多少は涼しい気持ちになったりもしていますけれど、基本的には「夏」ですね、暑いわやっぱ。
ぐったりの毎日です。
お昼寝をよくしているのですけれど、そのおともにiPodで音楽を聴いていたりします。iPodはほんと、重宝しています。いろんな音楽を楽しんでいるよ。そんでこの頃聴いているのは落語なのです。あれ、音楽ではないかも?(^^; まあそれはさておき、以前「お初徳兵衛」や「後生鰻」が面白かったとここでも述べたように思います。その後さらに多くの演目を漁っています。怪談話とかね。古今亭志ん生さんだけではなく他の方のも聞いてみたり。そうしてますます「志ん生さんは酔っ払い方が巧い気がするなあ」と再評価しちゃったり。
ほんとに酔ってんじゃねえか?
と疑いつつ。実際に舞台上でもお酒で酔っていた、という逸話もあるそうです。あるときには舞台に上がってそのまま寝てしまったこともあったとか。お客からは「今日は寝かせてやれー」と声が飛んだとか(笑) ほんまかいな。さておきこの頃お気に入りで何度も聴いている演目が「芝浜」という演目なのだ。
簡単に「芝浜」の説明を申し上げますと、魚の振り売りをしている男とその妻の人情噺なのだ。男は名を熊という。熊さんはお酒が大好き。仕事の途中でお酒を飲んじゃったりして失敗したこともあり、何度か断酒宣言をするもことごとくうまくいかなかった。ある朝、少し早起きしてしまった熊さんは浜辺で50両もの大金の入った箱が打ち上げられているのを発見する。やった!これで贅沢して遊んで暮らせる!と喜び勇んで妻のもとへ持って返ってくるのだけれど、拾得物であり、バレたらしょっぴかれて暗いところへ入れられる、と妻は心配する。
そこで妻は一計を。熊さんを「まあまあとりあえず」と言って寝かせて、その間に大家さんに相談、番所へ拾ったものを届けたのであった。さて、熊さんは起きて喜び気分のまま友人知人を連れて宴会騒ぎへ。なんせ50両もあるんだ、遊ぶぞーってなもんです。そうしてぐでんぐでんに酔っ払い、お店先で寝てしまう。そこへ妻が迎えに来る。
熊「おお、すまねえが、お代をはらっといてくんねえか」
妻「? あんた、なにいってんの?」
熊「50両があるじゃねえか」
妻「は? 夢でもみたんじゃね?」
熊「夢! あれは夢か! まじか! ガクブル……」
50両を拾ったことは夢だったことになる。あまりの自分の酷さにがっかりで、熊さんはついにお酒を辞めることに成功した。そのあと無我夢中で働き、年の瀬に借金に追われる生活からも解放されるまでになったんであった。「やっぱ人間、働かねえとな!」なんて言っちゃったりしてるし。もともと、お魚の良し悪しがわかる良い眼を持っている人だったのだ。お酒に目がないところだけが欠点だった。部屋の畳を新品に出来たりするくらい余裕が持てるようになったんである。
そうしてある年の瀬に、妻がついに白状する。
「あの50両は夢ではなかった。でも、遊んで暮らそう!と言っていたあなたが心配だった。豪遊していたらすぐに羽振りがいいのがバレて、拾ったものを届けなかったことで罰せられていただろう、それも心配だった。落とし主が現れず50両は熊さん、ようやくあなたのものになった。騙してしまってすまなかったね」
そう言われて熊さんは、妻が本気で自分のことを心配してくれていたことがわかり、「そうしてくれてありがとう」なんて述べるんであった。それをきいた妻は、こう切り出した。
「さあ、もう大丈夫だろう。熊さん、今夜はお酒を飲んでいいよ」
目の前には久しぶりのお酒。
「うわー、久しぶりだなあ、この香り、いいねえ」
と熊さんは喜ぶのだけれど、ふと、飲もうとしていたその手を止める。
「あんた、どうしたんだい? もう飲んでいいんだよ?」
熊さんは言う。
「やっぱり、酒はよしとこう」
「どうしてさ?」
「……また、夢になったら困る」
そこでお話は終わるのでした。
なんか面白い、エエ話やなあと高菜らいすは思いつつ、ぼけーっと天井を眺めているんであります。二人が末永く仲良く暮らせればいいなあなどと思ったり。とりあえず素敵な年越しを迎えられたのではないか、そんな気がしたんであります。
高菜はどうも「人情話」が好きみたいだ。他にもないものかと探しています。落語というジャンルだけではなく、たとえば「講談」という芸能もある。この講談というのは、主に軍記物や政談を名調子で語ってくれる芸能のことなのだ。youtubeなどに動画が上がっていたりします。(がんだむ講談、なんてものもあったよー) ただ、扱っている題材が歴史上の人物であったり、大事件であったりで、落語の人情噺と比べると、身近ではないというか。人情噺の高菜らいすにとっての肝は、「誰もが持っている駄目なとこ、よいとこ」なのであって。にはは。
いまのところ、古今亭志ん生さんの人情話に勝るものは見つけられずにいます。また講談はどうも語りの抑揚がお経っぽく聞こえちゃって(^^; それでもたぶん、あるとき、「あ! 講談面白い!」と高菜らいすが感じる未来がやってくることでしょう。何度かすれ違い、あるときはっと見つめあう、そんな瞬間が訪れるに違いない。むふふ。
落語が「伝統芸能」として褒め称えられ、ちょっと近寄りがたい(喩えるなら「一見さんお断り」的な)イメージもあるかもしれないのですけれど、そして寡聞にして高菜らいすにはその「伝統のすごさ」部分についてはいまいちよくわかっておりませんけれども、それでも「人のダメな部分」と「良い部分」、それはつまりちょいと「人の本当の部分」が、シリアスになりすぎずに笑いを交えて語られる、そういうところが落語が長く続いている理由なのかなあと思ったりします。
仮の未来を想定する高菜らいす、自分がもしママになったとき、子供が夜寝る前に「ママー、絵本を読んでー」とせがまれることもあるかもしれない。そのときには「まあ絵本はさておき、娘よ、これを聴け」と、落語を聞かすなんてことも……ないかな?(笑) 飲む打つ買うとかは子供にはワカンナイしな。落語はやはり、大人の愉しみです。にはは。
他の人情話も探してみたいと思います。
ではでは。
ラジオ体操会場で反逆の狼煙 [水琴窟のウンディーネ]
台風一過。
朝からあまりに清々しい風が高菜らいすを撫でるものだから、思わず一人旅に出てしまいそうでした。いつもの駅を通り過ぎ、大阪まで行き、海遊館でぼんやりしてこようかな、と本気で考えていた数分でした。まあでもそういうわけにはいかないので、いつもの駅で降りましたとも。お仕事熱心で責任感のある高菜らいすさん、あんたは偉い。社畜と呼ばれようとも、あんたがニッポンを支えているのだ。
って、会社勤めしてなかった(^^;
アカデミックなところに勤めている場合は、「会社勤め」と言わずになんというのだろうなあ、などという疑問はさておき、本日の二枚の画像は「ドクダミ」たんなのです。一枚目がスタンダードなドクダミ。二枚目の画像は八重咲きタイプのドクダミのようです。ドクダミにも八重咲きタイプが存在していたことに驚きました。
調べていないので適当ではない言葉になってしまうかもしれませんけれど、おそらく本来雄しべであったものが変化して花びらのような形になったのではなかろうか。そういう変化は珍しいものではないのかも。高菜らいすにとって驚きの出会いとなりました。ドクダミにも八重咲きタイプがある。これは盲点だ。
ドクダミは、園芸をされる方にとっては少し困った植物だと聞いたこともあります。なんぼでも生えてきよる。そして匂いがきついとか。「それさえなければドクダミも可愛らしいのに」とおっしゃっている方もいました。ほんとそうだよなー、と心の中で同意したのであります。
ああしかし、台風一過。すばらしかった。
指先ひとつでダウンサーン [いつも渡り廊下シルフ]

ごぶさたー。
腱鞘炎があまり回復しません。右手の人差指と中指がもうずっとビリビリしてる。ビリビリしているだけで、それさえ気にしなければ別に使用しても問題ないのですけれど、もっと動かしたほうがいいのかそれとも休ませたほうがいいのか、難しいところです。さらに高菜らいすのクセとしまして、寝ているときにときどき右手をマクラにして寝てしまうことがありまして、それも痺れの原因になっているのかもしれないという事実が発覚いたしました。
もうどないせえっちゅうねん。
さておき画像は「ウキツリボク(浮釣木)」と呼ばれる植物のお花です。別名チロリアンランプと呼ばれることもあるとか。一度視界に入れ、その名前をはっきりと意識できるようになると、あら不思議、世間の民家の軒下にはこのウキツリボクがけっこう好まれて植えられていることに気が付きました。至る所にある。
高菜もいつか、育ててみたい。
そういや台風が来ています。現在、高菜らいすの部屋の窓もガタガタと風に揺らされておりまして、網戸が勝手に開閉する始末です。壁に沿って風が吹いてしまっているようで、網戸がね、勝手に空いたりしまったりするんだよ。ほんとに。瓦などが飛んでこないことを祈るばかりです。みなさまは台風時三大死亡フラグである行為、「ちょっと田んぼの様子を見てくる」「ちょっと屋根瓦の補強してくる」「ちょっと海の堤防を見てくる」を行わないようお気をつけください。(田んぼに関しては、その年の収穫に直結する心配事なのかもしれず、心配になる気持ちは多少理解できる。しかし命を落としていたのでは本末転倒なのだ)
ではではー。
わて、腱鞘炎になってもたー [水琴窟のウンディーネ]

「モモイロヒルザキツキミソウ(桃色昼咲き月見草)」なのだ。
可愛らしいお花なのだ。観賞用としてやってきたのだけれど、いまでは逸出して野生化していることもあるらしい。ツキミソウなのに、ヒルザキとは、これ如何に? けれども「まあお昼間にも月は出ていることがあるから、セーフ」というお言葉を戴きまして、なるほどと思った高菜らいすでした。可愛らしいお花なのだ。
高菜らいす、数週間前から右手の平の様子がおかしく、本日はお医者さんに行ってまいりました。右手がどうもずっと熱く、腫れているような状態だったのです。「腱鞘炎かしら?」と思っていたら、その疑いが濃厚になりました。そうは言ってもキーボードを打つくらいで痛みが来るようなものではなく、なんとなく動かしづらいという程度だったのですけれどね。
だがしかし、数日前からは痺れがやってきたのだ。
これはヤバいかもしれない、怖いよ怖いよ。お医者さんへいくことにしました。自分で無理な方向に筋を伸ばしたりとなんちゃってマッサージを頻繁に行なっていたこともあまり良くなかったみたい。痛いときは無理せずにそっと安静にしておくのが良いそうです。お医者様に叱られました。素人のなんとやら、です(^^; 深く反省いたしました。今は湿布薬を貼っておりまして、ひんやり気持ちいいです。しびれは血行不良が慢性的であるために起こっている場合が多く、温めるのが良いそうです。
みんなも無理しちゃダメだぞ☆彡
さておき、この頃は青木玉さんという方の『こぼれ種』というエッセイ集を読んだりしております。著者の植物への関心を追体験できる面白い本です。とてもよくわかる気持ちが書かれているのだ。以前「植物を知らないことへの焦り」というものが高菜らいすにはあると申し上げたことがあると思います。その気持を知っているかのような文章がたくさんでてきます。「考えてもみれば果物をつける樹木は、その前に花を咲かせているはずであること」とか、「大島桜を見たくて大島まで行っちゃうこと」とか、青木玉さん、まるで高菜らいすのようだ!と思ってしまう始末。大変共感できるエッセイなのであります。しかし彼女が高菜らいすよりも優れているところは、「まあそれでも焦らずゆったりといこう」という態度が感じられるところでしょうか。素晴らしい。良い時期に良い本に巡り会えたように思います。お天道様は、高菜らいすを見ているのかもあなあと思ってしまいました。
どうも。
ちなみに青木玉さんは、作家の幸田文さんという方の一人娘らしい。幸田文さんは幸田露伴さんという方の娘らしい。どちらももしかしたら有名な方なのかもだけれど、高菜らいす寡聞にして詳しく知らない。今度、お母上やお祖父様の著作にも当たってみようと思います。(ふむふむ。幸田露伴さんには『いさなとり』という物語があるみたいだ。捕鯨が出てくるお話なのかなあ)
あと、これは別にどうということでもないのですけれど、かつて高菜らいすが「すばらしい本であった」と述べた苅谷剛彦さん著作『知的複眼思考法』の単行本が古本屋に並んでおりまして、思わず購入してしまいました。すでに文庫版を持っているというのに。ものすごくきれいな状態だったのでついつい買ってしまった(笑) 機会があれば誰かに差し上げればいいよね、と言い聞かせて購入しました。105円でした。高菜らいすの悪い癖である「何事も、答えがどこかに用意されている」という思考自体を考え直すきっかけとなった本のひとつであります。大学生にも人気の本らしく、毎年「大学に入ったら読むべき本」的なリストに加えられていることが多いのだとか。なるほど納得です。
そういえばこないだ読んだ『打たれ強くなるための読書術』(東郷雄二著)には、「では「知的に打たれ強い」というのはどういうことだろうか。それはいろいろなことについて知識を豊富に持っていて、議論で常に相手を言い負かすということだろうか。いや、そうではない。それはひと言で言うと、「正解のない世界に耐える」ということであり、ビター・チョコレートのように苦み走った大人の態度なのだ」と書かれていた。正解のない世界に耐える。うふふ。なんだかカッコイイなあと思ったものでした。
良い買い物をしたー。
いつか私はそびえ立つ神の塔に [いつも渡り廊下シルフ]
期間限定のアジサイ画像をー。
いろんなアジサイのお花が咲いています。少し花弁(正確にはガクかな?)の小さなタイプのものも。白いアジサイは圧倒的な存在感でした。光って見えました。ひょっとするとこれからだんだん色づいてくるのかも知れません。良い子のみんなー! 覚えているかなー? お花の色を決める四大色素! じゃあ高菜おねーさんと一緒に言ってみようー。いくぞー! フラボノイドー! カロテノイドー! ベタレインー! クロロフィルー! そしてアントシアニンはフラボノイドの一種だったね!(^^
よく憶えていました。みんな、えらいぞー!
はいだしょうこさんを意識してみた高菜らいすでした(笑) まあそれはさておき、アジサイのお花の色というのは「もともと持っている色素」と「土壌のpH」と「アルミニウムイオン」、そして「時間経過」に影響されるそうです。一般的に酸性土壌であれば「青っぽく」なり、アルカリ性土壌であれば「赤っぽい」お花になることが研究からわかっているとか。さらに研究はすすみ、酸性であればアルミニウムイオンが溶けやすくなるためその影響で色が変わるんであって、たとえば酸性土壌でもアルミニウムイオンが少なければ、青くはならない傾向が高いそうです。日本は雨の多い地域で、アジサイは青いものが多いのだって。けれども高菜らいすの街の歩道脇に咲いているアジサイは色とりどりでございます。あまりに美しくて、意識が一周しちゃって、生の植物が「造花」のように見えたりする始末。セイヨウアジサイは日本のアジサイが品種改良されたものだといろいろなところで説明を読みました。そしてまた日本に戻ってきた。おかえり、おかえり、と唱えながら朝の散歩を楽しんでいます。
以下、少し変わり種のアジサイも。
ガクアジサイの周辺のお花に見える部分が、八重咲きっぽくなっているものも見つけました。スミダノハナビ(墨田の花火)という品種のものにけっこう似ているように思うのですけれど、再度申し上げます、間違っている可能性が高いです。縁あってここへたどりついたアジサイ・ラヴァーの方、どうかお気を付け下さいませ。図書館でちゃんと調べるのが良いと思うよ?

こちらもちょっと変わり種かも。セイヨウアジサイよりも背が高く、花序(?)がだらーんと下がっておりまして、樹木の様相を呈していた種類のアジサイ。こちらはたぶんカシワバアジサイ(柏葉アジサイ)だと思われます。名前にあるとおり、葉っぱが柏に似ていることから名付けられたとか。どうでしょう、似ていますでしょうか。
ほぼ毎日散歩して植物探索をしているのですけれど、あまりにもたくさんの未知の種類に出くわしてしまい、焦ってしまう高菜らいすです。園芸種にまで手を広げると世界の裾野は何倍にも広がってしまう気配が。「わたしはいつか死ぬ。死へのカウントダウンは始まっている。知らないまま死ぬのは嫌だ」と半ば強迫観念?のようになってしまいます。しかしお仕事にも行かないといけないのです。ずっと観察しているわけにもいかない。植物を眺めていたらあっという間に時間が過ぎてしまい、「ぐわー! ヤバい! 遅刻する!」と慌てる。それならもっと早くから散歩をすればいいのだ、と思いついたのですけれど、気がつけばいつもより2時間も早く家を出てしまっていたり。そして、それでも時間が足らないのですよ……。
思い込みが激しいというのは困ったものです(笑)
人には「忘れていられる」という能力も備わっていると聞きました。死へのカウントダウンの音を忘れていられるはずなのだ。それを期待しつつ、極端な方向へ走り過ぎないよう、心をコントロールしていゆきたいと思います。
お花の画像、600枚くらい撮影しておりました。
いやはや、極端だ……。
主食はカイワレダイコンです [フェニックス中華鍋じゃーん]

馴染みの子。メキシコマンネングサです。
想像していたよりも小さなお花だったことに驚いたのがもう懐かしい。いまでは高菜らいすにとって当たり前の存在となってしまいました。花壇の下の方にこっそりと、しかし確実に勢力を伸ばしつつ、存在しているやつらなのだ。
さておき読書メモなどを。
ルイス・サッカーさんというアメリカの作家の『穴』という作品を読みました。児童文学のコーナーに置いてありました。冤罪によって少年院に入れられることになった主人公。干上がった湖のそばで、毎日ただ穴を掘らされる刑に処せられる。時代を超えて出てくるたくさんの人物たちの想いや行いがリンクする、たいへん上手な作品でした。高菜らいすは「ただ穴を掘らされるその行為」自体に何かを感じさせられる物語なのだろうか、と予想していたのですけれど、特別そういう事はなく、物語内で理由が用意されていました。先祖にかけられ、子孫数世代に渡って続いていた呪いがついに。学術的に考察される神話や昔話の構造を、巧い塩梅で現代に置き換えることに成功した作品なのかもしれません。
それから藤田雅矢さんという作家さんの『星の綿毛』を読了いたしました。高菜らいすはずっとこの作品のタイトルを「星の線毛(せんもう)」だと考えていたのです。でも違った。正しくは『星の綿毛(わたげ)』でした。人に紹介するときにも、「星のせんもうだよ!」と言っていたのでして、たいへんお恥ずかしい思いに駆られました。星のわたげです。ある砂漠の星にて、ひたすら大地を耕し種をまく神のような存在の機械が動いている。その廻りにムラがあり、その機械に寄生するようにして人々が生きているのだ。著者は農業関係の研究所に勤務されている方らしく、その経験や知識の生かされた物語となっていました。著者がリトープス(多肉植物の一種)に対して、こんな空想を働かせ、それが物語になった。そんなことを想像できて楽しかったです。
むふふ。





