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学年別漢字配当表なるもの [ぬるま湯大海嘯]

 こんばんは。

 久々に「作家でごはん!」の「鍛練場」へ、書いたものを投稿させていただきました。三語即興文というスレッドにはここ数カ月投稿させてもらっていたのですけれど、鍛練場そのものには久々の投稿となりました。もともと現在三語にあるお題から物語をふくらませていたのですけれど、文字数制限の倍くらいの分量になってしまいまして、鍛練場にそのまま投稿することに。

 新たな試みも加えたので、出来の方はまあいまいち納得がいかない作品となってしまいまいたけれど、ぼんやり思い浮かべていた「書きたいこと」は物語に載せられたと判断できましたので、投稿しちゃいました。緊張したー。

 今回子供の一人称を書くということで、漢字の開きをどうしたらいいものか大変悩みました。そこはもう高菜らいすが悩むべきところではないのではないか、などと思ったりもしたのですけれど、できることはやってみようということで、小学生の学年別漢字配当表なるものを片手に漢字を開いたり閉じたり(?)してみました。

 そもそも物語が子供に向けて書かれているものはなく、ちょっとオトナになった人に読んでもらいたい、などと思っており、じゃあ漢字の開きなんてどうでもいいんじゃないかと思う心がある、しかし一方で小学校五年生というキャラが語るという書き方にしたので、難しい漢字や言い回しなどをそのままにしておくと違和感がある、とそこらへんが工夫のしどころだったのだと思います。上手にできたかなあ、どうかなあ。

 また世間に出版されている子供視点の一人称の物語が、どんだけ丁寧に書かれているのかも少し実感できたかもしれません。だってさ、そういうのってさ、オトナが執筆しているんだよなあ。編集さんの工夫、知恵なんかもあるのかもしれないし。「とりあえず漢字を開いておけばいいんでしょ?」なんて甘い世界ではなかったのかもしれない。愕然。やっぱプロはすげえ……。常用漢字がこないだ11月30日に改正された昨今、なんだかタイムリーな鍛錬となりました。それだけで楽しかったかも。にはは。

 あと、話はそれますけれど、学年別漢字配当表を見ていて思ったのは、「うわー、小学校の低学年でこの漢字を習っていたのかー」とか、「なにー、小学校ではこの漢字は習わないのかー」という驚きでした。高菜いったいいつから、現在くらいの漢字スキルを得たのだろうか、と。嗚呼、小学一年生からコツコツと漢字を覚え、書き、読み、それが積み重なって今の高菜らいすがあるのだなあとすごく実感しましたのだ。読めない漢字が多くて面倒臭くなった書物が過去に、高菜らいすにはけっこうありました。いまはもう殆どなくなった。積み重ねって大切NE!

 これからも精進したいと思います。
 ではでは。投稿した、という宣伝でした(笑) しーゆー。

 『部屋の中で待っていなさいと言っても、きかない』というタイトルです。


みんな昔子供だってねえ [ぬるま湯大海嘯]

みのがちゃん.jpg

 オオミノガをご存知?

 オオミノガというのは幼虫時代には枯れ葉や木屑を身にまとってモジモジしている昆虫です。高菜らいすはその様子をミノムシなんて呼んでおりました。地域によっては別の呼び方があったりするのかもしれませんね。オスは時期が来ると羽化して羽をもつのですけれど、いっぽうメスはずっとミノムシ形態のままなのです。ずっと篭ったまま。恥ずかしがりやなのだ。

 さてこのミノムシなのですけれど、小さい頃図鑑に載っていた奇妙な実験がありまして、それを実行してみたリトル高菜らいすはなんとも苦い思い出を作ってしまったのでした。図鑑に載っていたのは、「ミノムシのミノをはがして幼虫を取り出し、毛糸などと一緒にしてほうっておくと、その毛糸でミノを作る」というものでした。カラフルな毛糸を使えばとても奇妙なミノムシが出来上がるんではないか。わくわくどきどきの高菜らいす、ママンに余っている毛糸をもらいまして、実行してみました。

 がしかし、幼い高菜らいすの手は意外と不器用だった。で、ミノムシの外側の殻を剥いている最中に変なところに力が入ってしまって、ミノムシを何度も殺めてしまっておりました。嗚呼、すまない。ほんと。結局、毛糸に身を包んだミノムシを拝むことはできなかったように思います。あの頃はしかし、なんでも触っていた。触るの平気だったなあと思います。いまはは躊躇しちゃうかも。触って、「動いた!」と楽しめるかな。

 さてこのオオミノガ。近年その数を減らしてきているそうです。なんでも帰化生物のヤドリバエという種類の生き物がいて、その寄生によって生息がおびやかされているのだそうです。以前は近所の垣根にいっぱいいたのに。もう簡単には見られなくなるかもしれないと思いつつ今回の出会いを楽しみました。

 ウィキペディアによると、清少納言による『枕草子』では「鬼の子」という表現で紹介されているそうです。確認いたしましたところ、たしかに書いてあった。さらには鳴き声をあげると勘違いされているような記述もあるそうです。リトル高菜らいす、ミノムシの鳴き声は確認できなかったなあ。清少納言の、或いは当時の人々の勘違いなのではないかと思われる。しかし「鬼の子」か。平安びとは、面白い見方をするものだと思います。

>蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐しき心あらんとて、…八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあわれなり。

 ミノムシを、意外と愛らしく捉えていたのかな。
 そんな清少納言の視線に、高菜らいすは共感いたしました。


花の色は、うつりにけりな [ぬるま湯大海嘯]

テイカカズラ.jpg
テイカカズラ02.jpg

 「テイカカズラ」と呼ばれるそうな。

 記事、4連続で植物の話。しかも全部白い花。特に意味はありません。見つけた植物がそんなのばかりだったので。白い花で「純潔」「誠実」「真摯」さなどを読者のみなさまにアピールしようなど、そんな魂胆はありません。たまたまです。それに高菜らいすは炎天下のヒマワリを目指しているのであって。

 「テイカカズラ」をついに見つけました。鎌倉初期に活躍した藤原定家さんから名付けられた植物だとか。愛しく思っていた式子内親王が死んでしまいやりきれない想いの定家。ついに彼はカズラとなって彼女のお墓に絡みついた。そんな逸話が残っている。なるほど、恋人にフラれて心残りのときは、相手にテイカカズラを贈りつければいいのだな。曲解する高菜らいすに藤原定家さんは怒り心頭かもしれません。

 植物学上は、キョウチクトウ科に分類されているようです。同じキョウチクトウ科に「ツルニチニチソウ」というのがある。以前当ウェブログでも画像を載せたと記憶しています。花弁のわずかなねじれ具合が、記憶の中で重なりました。ツルニチニチソウは紫色のお花。比べて、テイカカズラはそれよりもサイズが小さく白いお花。

 4連続で白いお花が続いたことに何か因縁を感じます。それではここで高菜らいすがこないだ手に入れたばっかりの知識をご披露しましょう。(付け焼刃とも呼ぶ) 世界に遍く勢力拡大している多くのお花たちは、代表的な三つの成分によって色が付いているとされています。フラボノイド、カロテノイド、ベタレインという三つの成分。(クロロフィルもいれたら、四つ) 紫色を呈すアントシアニンはフラボノイドに含まれる。ツルニチニチソウのお花はおそらくアントシアニンを含んでいるのではなかろうか。

 調べ中。

 うむむ。ひとつだけ花弁内のpHによってアントシアニンがどのような色を呈するか、という論文が見つかりました。しかしどっちかというと、ツルニチニチソウ全体に含まれるアルカロイド成分がお薬などに使える、という記述が多いようでした。これは今後引き続き調査したいと思います。

 さて白いお花なのです。

 白いお花も、クリーム色をしたものや黄色がかったお花をしたものなどはフラボノイド由来の色であるそうです。しかしそれともうひとつ、白く見えるのには別の構造的な理由もあるのです。専業主婦のそこいくあなた、そうですあなたです、あなたは洗剤を使用して食器を洗うでしょう。いや、専業主婦に限らず、食器を洗うときには多くの方が洗剤を用いると思います。ゴシゴシ。ゴシゴシ。ゴシゴシ。そしてシンクには真っ白な泡が。

 それでは洗剤は白色をしていましたか? いいえ。していません。これが「泡という構造によって白く見える」という現象なのだ。話を戻すと、白い花の中にも花弁の中に泡に類するような構造を持つことによって「白く見せる」タイプのものがけっこういるのであります。白いお花を指でぎゅっと押さえたら、その構造が破壊され、花弁の向こうが透けて見えてしまうような、そんな経験をしたことのある方もいらっしゃるかもしれない。高菜らいすであればこないだトキワツユクサを発見した、とここで報告しました。あのトキワツユクサの白色はこの構造による可能性が高いと高菜らいすは睨んでおります。いつか、触ってこようと思います。

 以上、付け焼刃でした。詳しく知りたい方は「花の色 成分」などで検索をかければいろいろと面白いことがわかるかもしれません。またたくさんの書物が世の中には出回っております。それらにあたるとなお素晴らしい。高菜らいすも探してみようと思います。

 テイカカズラは香りも強かった。でもどんな香りだったか思い出せない。
 また来年確かめよう。

 植物探検はずっと続く。


吸い込んでアンダルシア [ぬるま湯大海嘯]

 ウェブログタイトルの下に、「本を読んだり音楽を聴いたりギターを弾いたり御飯を食べたりお酒を飲んだり物語を考えたり、時々働いたりします」と書いているのをすっかり忘れていました。今日は音楽のことを書こう。YouTubeへのリンクを貼ることができるのはとっても便利だ。

 パソコンを新しくしてからまた再度iTuneに音楽を入れ続ける日々をすごしています。iPodなの。旧PCのHDDは容量が40Gほどでして、音楽どんどん取り込んでいたらすぐにいっぱいになってしまう恐れがありました。うわさに聞くところによると、HDDを目いっぱい使ったりしたらPC動かなくなっちゃうとか。

 なんで?

 何度か調べてみたりもしたのですけれど簡単に噛み砕いて説明する能力が高菜らいすにはありません。まあここは勝手な妄想で思考をデコレートしまして、たとえば書棚の整理をするとして、多少スペースに余裕があるほうが、「これをここにおいて、そんでこっちの本をこっちへやって」と作業スペースを確保できるのだけれど、ぎっしり満タンに詰まった書棚や床にも置くスペース無しという状態だと作業は恐ろしく難航する。似たようなことがPC内部でも行われたりしているのではないかとそのように思っています。

 間違ってたらごめん。

 パソコン内部も消費者金融と同じく「余裕を持って」使用すべし?

 新しいPCは500Gもの容量がある。とりあえず容量不足を気にしなくても大丈夫、高菜らいすはガンガン音楽を取り込んじゃうパラダイスを満喫しています。取り込んだ音源の音質は高菜程度の耳にも劣化して聞こえてくるのですけれど、まあそれをいったらデジタルなんて立つ瀬がなくなるのでして、そこは切り捨てました。あきらめた。慣れを待つことにします。ただ、以前借りてきたCDからiPodへ入れた音楽はどうも聴くことが出来ないみたい。再度PCのほうに入れなおさないとだめなのかも。志ん生落語が聴けなくなる。ちょっと寂しい。そんな毎日を送っております。

 さて。ここからはちょっと趣味の世界なのです。

 あるときから「なるべくそのことを知らない人にもわかりやすいように書きたいなあ」と思うようになり、なるべく丁寧に、なるべくリンクを張って便利になどと思っておりまして、まあままならない、忘れてしまうことも多いのですけれど、本日はそのことを意識しながら高菜らいすの趣味の世界の記事を書こうと思います。お時間があればお付き合いください。必殺仕事人のテーマも出てくる。

 音楽といえば高菜らいすはクラシックギター弾きをしていたことがありまして、まあ近頃はもっぱら結婚式の余興要員をさせてもらっているだけなのですけれど、所有しているCDもそれに応じたものが多いです。そしてまたイベリア半島に恋焦がれていた時期もあり、スペイン関連のものが多いのであります。このごろ以前と少し傾向が変わったのは、邦楽の懐かしい歌謡ポップス、それからヴァイオリン演歌、あとはアニメソングなどを聴くようになったことでしょうか。「スーパースリー」のテーマソングなんかを聴くと妙にテンションが高くなりますです。(落語はさすがに音楽と呼ぶのは厳しい気がする)

 そしてこれは大変喜ばしいことなのですけれど、本日、ホアキン・ロドリーゴさんという作曲家さんのギター器楽曲をなにげなく聴いていて、ドキッとしたのであります。以前はあまり聴いていなかった楽曲が、なんか、すごく良い曲なんじゃないかと思えてきたのですヨ。(演奏はニコラ・ホールさんというギタリスト)

 この変化はいったい? どうしてこうなった?

 いろいろと理由を考えてみるに、以前は「自分で弾いてみたい」という欲望の元に音楽を聴いていて、しかしそうなるとロドリーゴさんの楽曲は高菜らいすにとって大変難易度が高く、また和音が少し複雑でそのよさを理解するに到達できていなかったということなのかもしれません。もちろん今も弾きこなせるような技量などはまったく身に付いておらず、ただ指をくわえて聞き入るしかないのですけれどね。でも、すごく良い曲だと気が付きましたのですヨ。たいへん喜ばしい。

 ちなみにロドリーゴさんというのはスペインの作曲家で、クラシックギター曲を残してくれた大変偉大な作曲家だそうです。ある楽器が世の中に広く行き渡る理由には、たとえば「音色のよさ」や「音域の幅」や「音の大きさ」、それから「持ち運びやすさ」や「手に入りやすさ」などたくさんあるとは思うのですけれど、「良い曲に恵まれている」というのもかなり重要な因子のように思われます。クラシックギター界の過去の歴史においてある時期に他の楽器の曲がたくさんギター用に編曲されたことが、現在のクラシックギターの居場所を与えてくれているようにも思います。近所の楽器屋さんへ行ってもたとえば和楽器の代表格である篳篥(ひちりき)笙(しょう)は手に入れづらい。比べてクラシックギターはそれよりはだいぶ手に入れやすいと思います。教則本もたくさん出版されているしね。(琵琶や三味線などの楽器は意外と売っていることがある。カリンバなどは自分で作るキットが売られていたりするなあ)

 もちろん、クラシックギターの曲を書きたいと思う作曲家がいた、つまりギターの音色でこそ鳴らして欲しい楽曲があった、ということも見逃せない要素だと思います。ふふふ。やはりギターってけっこうすごい楽器なのだ。奏法、楽曲の量、楽器の仕様などなど、これらはギターのルーツになる楽器が産声をあげた頃と比べるとずいぶん進化しているのだそうです。

 どこかで「アランフェス協奏曲」という名前を耳にされた方も多いのではないでしょうか。これもロドリーゴさん作曲なのです。第二楽章がよく取り上げられる。この第二楽章のテーマはジャズの人チック・コリアさんの「スペイン」という曲の冒頭にも取り入れられていたりします。ムード音楽分野では「恋のアランフェス」なんて俗称で呼ばれていたりもします。「恋」をつけてしまうなんて「オイこらてめえ責任者出て来い」と声を荒げたくなる気持ちも少しあるのですけれど、しかしこの二楽章のメロディーの素直さ、(誤解を恐れずに言いますと)わかりやすさなどが、そういう言葉を付けたくなった理由なのかも。「恋なんて言葉を付けるのってなんか俗っぽいよ」と思う高菜らいすもまた俗っぽいのかもしれません。これだからクラシック好きはいやーね、などと言われてしまうかも知れず、ええそうですね恋のアランフェスでもいいんじゃないでしょうかアハハ。

 ギター協奏曲というスタイルに限らず他の楽器でもたくさん演奏されています。あとあまり関係ないのですけれど、上記リンクをたどってくださった方、どこかで聞いたことのあるメロディーだなあと思ったかもしれない、そうなのです、「必殺仕事人のテーマ」の最初にちょっと似ているではありませんか(笑)

 「自分の好きなもの紹介」をまじめに書くと少し照れますな。
 これくらいにしておきますです。

 しかし追加でふと思い出したことがあるのです。

 果たして「音楽」は我々ヒトに絶対に必要なものなのだろうか。
 風呂敷広げすぎた感があるのでこの疑問を高菜らいすに置き換える。
 果たして「音楽」は、高菜らいすに絶対に必要なものなのだろうか。

 ずいぶん以前からこの「問い」をずっと抱えています。

 このあいだ、サッカーワールドカップについて「興味を持てないでいる」「スポーツ全般に興味が無いかもしれない」と申し上げました。自分が体験したことのあるテニスには少しだけ興味を持つことができる。考えてみればスポーツはテレビニュースでけっこう時間を割いて報道されたりしています。新聞にもスポーツ欄が毎日一定のスペースを割かれて掲載されている。日曜日のお昼下がりのテレビ番組がときどき恐ろしいラインナップのときがある。それはどんなときかと申し上げますと、チャンネルを変えるとサッカー、またチャンネルを変えるとプロ野球、さらにチャンネルを変えるとオリンピックのなんかの競技、さらに変えるとゴルフ、バレー、バスケット……そんな状態に出くわしたことがあるのです。いったいなんだこの時間帯は……と驚愕したものでした。(日曜日のこの時間帯にこういう編成になるテレビ局側の理由、視聴者の要望などはいくつか耳にしたことがありますよ)

 まあそこは人それぞれ好みがあって、別にそれでよいのです。

 しかしこの「スポーツの市民権の得ている度合いの高さ」に少し怯んだりしています。高菜らいすはスポーツにそれほど興味を持てない、しかし音楽はよく聴いたりする。それでは音楽に興味を持てない人はいるのだろうか。いると思う。これまで何人か出会ったことがある。音楽にさっぱり興味が無い知人などはしかし、カラオケで何か一曲くらい歌えたほうが都合がいいので流行の音楽をときどき手に入れたりしている模様。スポーツにも似たような行動を見せる人がいる。仲間内で会話するために特にスポーツに興味も無いけれど試合結果などをチェックする習慣を見に付けている人もいらっしゃる。高菜も少し、似たようなことをすることがあります。阪神タイガースを気にしてみたりね。

 スポーツに興味を持てない自分と、音楽に興味を持っている自分。ここからスポーツと音楽について自分が何を感じているかが見えてくるんじゃないだろうか。そんなことを思ったりしています。さらには「スポーツと音楽を同列にして並べていいのだろうか」という大前提についても、これからチェックをしていかなければならない。

 高菜らいすに必要なものはなんだろうか。現在確かに判明しているものもある。食物。睡眠。健康に悪い影響を及ぼさない程度の居住スペース、気温の高低に対応できるための衣服。そんな基本的欲求。そしてそれらは現代ではお金で交換できるのでそのお金を得るために高菜らいすは働きます。だから仕事も必要です。そしてあと少し希望を申し上げるなら誰かに「高菜らいすが必要だ」とか「好きだ」と思われたい、言われたい。そしてときどき自分でもびっくりするのが、この最後の少しの希望をかなえるために、基本的欲求を後回しにすることがあるということです。

 まだまだ自分がよくわかりません。


ぼくらはまだ幼鳥なのカモ [ぬるま湯大海嘯]

雨しとしとの鴨川.jpg

 雨の日の川沿いのお散歩は、高菜らいすにとってココロ休まる行為のひとつなのです。その理由とは。ひとつ、人通りが少ない。ふたつ、鴨川独り占め。みっつ、増水しそうな川の様子を観察できる。よっつ、太陽光が弱いのでデジカメ撮影が思い通り。他にも挙げればキリがないのですけれどとりあえずこんなところでしょうか。遠くに見える野鳥の群れ。降雨に耐える彼らは健気でとても美しい。なんつって(笑)

 上の画像の中にも野鳥が映っているのですヨ。拡大してみます。

雨しとしとの鴨川02.jpg
温まるカモ.jpg

 丸まってじっとしているマガモがとても可愛いのであります。自分の羽の中にクチバシを埋めている。テリトリー内、およそ4m以内に近づいてもまったく逃げる気配がありません。そもそもこの子達はいつも逃げる気配がない。愛いやつよのう。画像の3羽の左のやつ、まるで白目をむいているようにも見えます。でも違うのだヨ、まぶたが閉じているだけなのだ。彼らの瞬きも確認できるほどの距離でした。川べりに生えた草をお布団にして、仲間と集まってじっとしていました。

 見られて、とってもラッキーでした。

 喜びつつデジカメ撮影していたら時間を忘れてしまって、あやうくお昼過ぎからの授業に遅れるところでした。職場放棄するところであった。雨の日に川辺でお弁当を食べる。これ、至福のときなのである。ときどきふと「あれ? なんか自分、ひとりぼっちか?」という焦燥感に襲われつつ、けれどもそうでもないことに思いがいたり、ますます楽しくなるのでありました。

 職場近辺にお散歩できる場所のある方はぜひ一度お試しくださいませ。真夏になると外に出るのが億劫になります。それはなんでかっていうと「暑いから」なのでして、ですのでこの時期をまさに好機として、屋外で何かを楽しむのが肝要なのではないかと。ん? 雨が降っているから嫌だとおっしゃる? うむ。

 じゃあ、ほかを当たってくれい。


野菜が野菜が野菜がボーン [ぬるま湯大海嘯]

ハエトリグモがやってきた.JPG

 網戸をちょこちょこ動くもの、はっけーん!

 こちらは大変暑かった。最高気温24℃と、ヤフー天気予報にのっていました。図書館へ行くときもぽかぽか過ぎて汗ばむくらいだったのだ。さらに風も強かった。髪型がもう原型をとどめない。ぼさぼさになったよ。春が来たなあと苦笑いしたのでありました。春の風は苦手である。

 アパートの廊下の壁には、毎年見かけるのだけれどいまだに名前がわからない虫もやってきていた。アパートの大家さんがやってきて殺虫スプレーで退治していく虫である。殺虫スプレーの「ぷしゅー」という音が聞こえるとだいたい午前6:30なんである。そして麻痺して床に落ちた虫をホウキで集める大家さん。

 またホウキの音も聞こえてくるのだろうな。


弥勒菩薩を知ったらいいのに [ぬるま湯大海嘯]

 こんばんは。

 今日は暖かかったです。3月も中旬になった。これからは春のことを考えて生きていこう。そのように決意した高菜らいすでございます。暑い夏がまたやってくるのだろうなあ、ってもう春のこと考えてない(笑) オホホ、笑うがよいぞよ。高菜らいすは先取りで生きていくことに決めた。と、何度も言っているけれど何度もそれを忘れる。難儀な記憶力に生まれてしまったものである。けれどももしかしたら記憶力のせいではないのかもしれない。

 ところで町田康さんの『宿屋めぐり』を読み終えました。面白かったよー。帰宅してからの時間、それから寝る前の時間に読んだのですけれど、ついつい夜更け、夜明けごろまで読んでしまいました。次の日からだがへとへとになります。あと、ここからはネタバレしているので未読の方は以下の文章をお読みにならないようにお気をつけくださいませ。

 『告白』や『パンク侍~』と同じように「時代劇的な舞台」や「落語的な舞台」でありつつ、現代にしかない単語や事柄もたくさん出てまいります。「OL」とか、「ケータイ」とか「ギャル」とか、そんな言葉もお構いなしに出てくる。地名も実在の地名の漢字をめちゃくちゃにしたものだったりする。(「王裂弁」ってなんだろ? と思っていたところ、これはどうも大阪弁のようでした) おまけに超常現象も出てくるんである。

 そしてまた「語り手」は基本「利己的」であるように行動する。そこに「あれこれ屁理屈や詭弁」を自分自身に用いるんである。運が悪いときは「なんでオレが!」と憤慨し、運の良いときには「目先の楽に囚われて」生きるのである。未来のこと考えて貯金する、という行為などは出来ない人なのだろうなあと思う。このなんとも言えないダメさ加減を、町田さんは上手に、ユニークに、面白おかしく描く。そういうときに使用される「大道具や小道具」が高菜らいす個人的に好きでして、それが理由で町田さんの小説が好きなのだろうなと思う。

 そして町田さんは「わかりやすい伏線」をほとんど張らないなー(笑)

 今回の作品には「主」という存在が出てくる。主人公はこの主の命をうけて権現様へ大刀を奉納しに行くのだ。この主がとんでもなく恐ろしい人で、語り手である男はこの存在のことをなによりも恐れて、自分の行動になんとか理由を与え言い訳できないものかとあれこれ思弁するんである。ああこんなことしたら「主」がどこかで見ていて、のちのちひどく折檻されるんではないか。ああでも、ああでも。そのように恐れるんである。高菜らいすは最初「あるじ」と読んでいたのだけれど、途中でキリスト教関連のパロディ的な描かれ方がされている箇所があって、そのとき「しゅ」と読むのかもなあと思ったものでした。ソドムの市。ハリツケにされた子。などなど。(方舟に関する逸話へのオマージュ? みたいなものもあったかもしれない。けれども高菜らいすには確認できなかった)

 おおー。主よー。人の望みの喜びよー。

 しかし寡聞にしてキリスト教関連の、つまり聖書などを高菜らいすは読んだことがなく、もしかしたらそれと関連させて読むとまたひと味違った楽しみ方ができるのかもしれない。「主」をたとえば「神」として考えてはどうか。とまあそうは思いつつ、「物語内部の人の変化」と「物語での人の生き生きさ」を楽しむのことにしているので、今回は深入りしないでおこう、とそのように対処することにいたしました。

 「主」という存在は高菜らいす的には、仮に「良心」というふうに置き換えてみたらどうだろうかと思った。「良心の呵責」という言葉がある。本当にあるのかないのかわからないものに、町田さんは「恐ろしい主」というカタチを与えて描いてみたのではあるまいか。アルマイト。そういうことを思いつつ。(あと、町田さんはダジャレをいっぱい使う。なんともバカげたダジャレで、そこも好きなのかも)

 他にも、「語り手の男」である主人公は感情に支配されたり、一方で思考の結果から得られた未来に自身を導こうとしたりする。この揺れ動くさまがなんとも人間らしく感じました。まあだいたいが失敗するのだけれど。感情に支配されているとき、「言いすぎたり」「言い足りなかったり」する。それが不幸に見舞われる一因ともなっていて、うーん。とっても興味深い。この男はしかし、なんだか憎めない。というのは、論理が未熟で到底良き結果にたどり着かないようなことを考えたりするのだけれど、そこにちょっと「うん、論理はよくわからんけれど、その気持ち、そう思ってしまうのはなんだかわかる気がするなあ」と思ってしまう高菜らいすがいるからだ。

 それでは登場人物は物語内でどう変化したか。

 ということを考えてみるに、主人公はやはり変化できなかった気がします。そしてそれはたぶん、「こういう人間の性質こそが本質で、変わることができないのだ」と町田さんが強く感じていらっしゃるからで、そのような言葉を高菜らいすはこの物語から受け取ったのでした。
 けれども「またはじめから宿屋めぐりを繰り返させる」という締めのシーンに、高菜らいすは仄かに暖かい気持ちになったようにも思います。(単行本600pを読み終えたという達成感かもしれんけれど(^^;) 最初のシーンと同じその場所には、なんだか前よりも少し「ええ感じ」な主人公がいるような気がした。輪廻転生スゲーとか言っているのではなく、たとえば自分の魂が何度も繰り返されている、なんて考えることによって、その繰り返し自体の意味は薄いものになって、もう現今でどう行動するかが重要なのではないかな、なんて思えたりもするからなんであります。

 とても面白い本でした。

 ちなみに最後の方の「崖下に落ちてから竹藪の古びた神社へ」のあたりが大変印象的でした。『告白』の最後の方もとても厳かな雰囲気が漂っていた。以前にも申し上げたかもしれない、しかし何度も申し上げますけれど「緩急」を感じられる物語はとてもいい気がする。(「ま、こんだけの長編物語であれば、緩急も否応なく付いてしまうだろ」とか邪なことも考えつつ(^^; 何が「緩」になり、何が「急」になるかは、その時次第で、つまりは相対的なものであるように思う。また書き手というよりも、読み手が原因となる現象なのかもしれないしなあ。これは今後の宿題としたいと思います)

 漢和辞典をたくさん引いた物語であった(笑)


もう、ダレイオスさんってば [ぬるま湯大海嘯]

 れでぃーす&ぜんとるめーん!

 一年半とか二年くらいに一度のコーナーがやって参りました。そうです、高菜らいすの前世はシャンポリオンなのです。古代への情熱がもうずっとこれ熱すぎ。オイラに触れるとヤケドするぜ。そんなわけで前回の復習をしますと、えっと、たしか「アラビア文字」と「マヤ文字」で「たかならいす」と書いてみたのではなかったでしょうか。(他にも書いたっけな?) その後それらの文字や文化の勉強を進めたかと問われれば「NO」でございます。いっときのたわむれに終わった。まあそんなことは気にせず本日はあの『ギルガメシュ叙事詩』や『ハムラビ法典』などの存在が明らかになったメソポタミア文明の文字、そうです「楔形文字」で「たかならいす」と書いてみましたのだ。

 じゃじゃーん。

くさび形文字.JPG

 寒さに震えながら書いたヨ。

 基本的に△っぽい図形の組み合わせなのだ。なるほどまさに楔です。どうでしょうか、古代オリエントの香りが漂いますでしょ? 今回参考にした解説書は「アッカド語」をベースに表音の方法が書かれてありました。楔形文字を利用した言語は、シュメール語、エラム語、ヒッタイト語などもあるそうです。ヒッタイト人はたしか、鉄器を用いていたことで有名なのではなかったか。漢字文化圏などという言われ方がありますけれど、そんな感じで楔形文字文化圏というものがかつて存在していたのだろう。

 5000年以上も前、まずは粘土片で記録を残すことを思いついた人々が居た。チグリスやユーフラテス川に囲まれたメソポタミア南部は巨石や森林などに乏しく、石や木片に文字を残そうとすることはあまり思いつかなかったのかもしれない。しかし良質の粘土があったのだ。そこで、その粘土を使って記録を残したそうな。最初は粘土片をいろいろな形にして表現していたそうなのだけれど、そのうち粘土板に線を描いて表すようになり、描くときに「葦の茎」を用いるようになった。「葦の茎」を押し当てた形、まさにそれが「楔形」だったんである。

 メソポタミアでは何度か王朝が興り、滅んだようです。紀元前550年くらいになってアケメネス朝ペルシアが興り、アラム語(22文字を使用する言語)が広まってからのち、楔形文字は数百年をかけて忘れられてゆき、現在この文字を使用する文化はなくなってしまったのでした。「日本語も数百年後にはどうなっているかわかったものではないなあ」なんて思った高菜らいすでございました。漢字はどんどん簡単になっているそうですし。(第二次大戦後、「日本語は全部アルファベット表記にしちゃう?」という案が出たと聞いたことがある)

 初期王朝のころは楔形文字には1200種類以上の文字があったそうな。それがどんどん統廃合を繰り返し、数が減り、ついに使われなくなってしまった。アラム文字が22文字だけだったということを知り、安易な考えではありますけれど、「覚える文字数が少ない方が使い勝手が良かったのかも」と思うし。日本語は平仮名50文字、カタカナも50文字、そして漢字がたくさんありますよね。1200種類に驚きつつ、解説書には「日本語だって漢字のことを考慮したらいっぱい文字があるので、抵抗はないのでは?」と書かれているのを読んで、ふむふむと思った高菜らいすなのでした。

 そして密かに、「漢字文化もいつかは滅びる運命だったりして……」と不安になりました。けれどもきっと数千年後の未来にも、漢字文化を研究して読み取ってくれる研究者が生まれているに違いありません。ぼくらの考えていたこと、思っていた気持ちを、読み取ってくれるかもしれない。読み取りやすいように、いっぱい記録を残しておかないとなあなんて思うんであった。誤字脱字は減らしておかないとな(笑)

 ちなみにアッカド語には「オ」という母音が無かったそうです。つまり、例えば「大友桃子」さんという方がいらっしゃったとして、その方の名前はアッカド人にはとても聞き取りにくかったのかもしれない。今回参考にした解説書では「ウ段」を仮に「オ段」として使ってみようと提案されていました。つまり、「おおともももこ」さんは「ううつむむむく」さんと表記する。「たかならいす」という名前には「オ段」が無いので気にせずに表記できたのですけれど、「オ段」を含んだお名前の方はちょっと変換作業が必要になるのでした。

 たとえば英語で「Louis」さんという方の名前をカタカナで「ルイス」と表記する作業に日本人は親しんでいる。「ru-i-su」と変換している。ここに「L」の「R」の区別はない。また「s」も「su」としている。このことを考えれば「ウ段」を「オ段」で代用するのにも抵抗感が減るのではないか。と、解説書に説明がありました。この解説書は、丁寧で親切な書き方がされていて大変好感が持てました。

 また楔形文字には「漢字」のように表語的に使われたり表音的に使われたりする文字も存在することがわかっているのだとか。日本はかつて中国から漢字を輸入しそれを平仮名や片仮名に加工したりして従来の「やまと言葉」を残しつつ、文字で記録できるようになったのだよな。万葉仮名を思い浮かべると、楔形文字のことが身近に感じられるのではないかと解説書に書かれていました。

 なるほどー。

 文字や言語のことを考えていると「翻訳家」という存在にいつも敬意を抱いてしまいます。国際的な会合などが合った際には、「今日はどこどこで会合があり、合意文書に署名した」とニュース報道があったりしますけれど、言語が違うのに「合意」に達することができたなんてすごいことだよなあと感心します。それはもう長い時間をかけて他の言語の辞書を作った人々がいて、そのおかげで相手の意図していることがわかるのだよなあ。

 ホーガンのSF小説が読めるのも、サリンジャーの小説が読めるのも、ヴァガバッド・ギーターが読めるのも、他の言語を研究してその意味を掴んでくれた人々がいたからなんである。ありがたいことである。万葉仮名などからはじまり、文字を取り入れた人びとにもありがたさを感じる。文字がなければ当時のことは現代にまで伝えられなかったと思うのだ。時間を超えて伝えられる。つまり、文字が発生するとその文化には「歴史」が発生するのだよな。国の歴史を編纂して残す、という作業は例えば平安時代にも頻繁に行われていたように見受けられる。ひょっとしたらときには「都合の良いように事実を書き換えた」ということもあったかもしれないけれど、それでも文字で歴史を残してくれて、ありがとう。高菜らいす、おかげで休日も楽しく過ごせるというものなんである。

 楔形文字も楽しかった。

 次回はエジプトのヒエログリフか、それかサンスクリット語などを書いてみようかと思います。数年後にもこのウェブログが続いていればいいのですけれども。

 古代に想いを馳せた楽しい時間でありました。(いつかに続く)


好色ダンディは棚に上げる [ぬるま湯大海嘯]

 『伊勢物語』が面白いんである。

 図書館へ行きました。膨大な書物の海に呑まれそうになりながらもなんとか無事に帰ってこられました。あぶなかった。あとちょっとで図書館付きの座敷童になりそうだった。ほっと一息、お紅茶を飲む。一度に最大10冊まで借りられるシステムで2週間以内に返却するルール。高菜らいすの能力では2週間で読むことのできるのはせいぜい5冊くらい。ま、無理して8冊くらいか。そういう理由もあって写真集や図鑑、ある書物の一部だけ読みたかったものなども織り交ぜて貸し出していただいております。

 ちなみに平日の開館時間が午後7:30でして、これがとてもありがたい。試しに自分のかつて住んでいた土地における図書館の開館時間を検索してみたところ、午後5時、長くて午後6時となっているところが多い。京都市図書館は異例の開館時間の長さであります。すごい。とても便利。ますます住民税を納めたくなるんでありました。(もう納めた。普段利用している頻度からいってすごく安い気がしました。公共サービスってとてもお得。公共サービスというものを意識し始めた人類どもは頭がいいぜ)

 図書館についていろいろと考える機会の多い高菜らいすなのですけれど、それはなんでかというと、親戚のおじさんに図書館長をされている方がいるからかもしれません。(京都市の方ではありません) ちょっと図書館側を擁護するような意見になっている高菜らいす、そういう影響を否定できない。

 親戚のおじさまにかつて聞いた話によると、図書館員にもいろいろとご苦労があるご様子でした。たとえば「本の汚れ」問題など。「本を大事にしてもらえず、図書館としては蔵書を一冊失うことになり損失をこうむった」というだけで終わる話ではなく、そういう本を借りた人が図書館に怒鳴り込んでくることがあるのだとか。「借りた本が汚れていた! 手に持つのが不愉快ではないか! 前に借りた人を調べて謝罪弁償させろ! それにちゃんと本を点検しているのか! 子どもが触ってその手を口に入れたりしたら汚いじゃないか!」などなど。本にはお醤油かソースらしきシミが付いていたそうな。

 気がつかなかったことへの謝罪、そして図書館の設立の経緯、「そもそも図書館とは」というところから、個人情報保護法や、返却される全ての本を一ページずつ点検することの困難さ、などなどを順を追って説明し、なんとか心を鎮めてもらうそうです。もちろん「汚れに気がつくように気をつける。しかしその作業には限界がある。本を大事に扱ってくれない人には現在でも注意するようにしている。今回も汚した人が誰だかちゃんとわかったら注意する」と付け加えて。最後には「税金泥棒め!」と捨て台詞を吐かれることもあるのだとか。

 いつも書物に囲まれ、ゆったりと流れる時間の中でココロ穏やかに働ける場所、図書館。などという穿った思い込みを持っていた当時の高菜らいすはこの話を聞いたときに驚いたのでした。書物の貸し借りという行為、それは人と人が交差することなのかもしれず、そういうトラブルも「たまに」は起こるのだろう。社会に出て働くのって大変だわ、と子供心に思い、震え上がった高菜らいすなのでした。いまとなっては「ちゃんと対応できるような人になりたいわん」と思うんである。

 話が逸れた。

 「古典に親しもう」熱が冷めない高菜らいす、ということで先日ふと思いだしたインドの古典である『ヴァガバッド・ギーター』の収録されている本を借りました。『ヴァガバッド・ギーター』というのは『マハーバーラタ』の一部を切り取って成立しているヒンドゥ教の重要な教典のひとつでして、詩という形を用いて哲学などが語られている本だと思います。(例の如く間違っているかもしれないので詳しく知りたい方は自分で調べてね☆) 成立の確認されているのがインドのグプタ朝(西暦320年~550年)の頃だそうな。日本に於いては古墳時代でしょうか。(最近は「大和時代」という言葉を使用しない傾向にあるのだとか) ちょっと時を遡りすぎた気がしないでもないですけれど、これが古典でなくてどれが古典なのだという気持ちでございます。

 この本の感想についてはまたのちほどと思っているのですけれど、いっぽうで「日本の古典も読まないと不平等だよな」という均衡至上主義な高菜らいすがムクムクと出てきやがりまして、日本の古典コーナーもウロウロすることに。古めかしい装丁の全集がたくさんあった。

 そこで借りたのが『伊勢物語・大和物語』であった。そのうちの『伊勢物語』を読んでいるのです。高菜らいすは、学生の頃古典をさぼっていたせいで文法などはあやふやですけれど、借りた本には口語訳が載っているので安心でした。ついでに解釈するにいたる理由なども書いてあって面白い本です。さらには「昨今の解釈本などではこう書かれているけれど、なんともけしからん! 何もわかってない! そうではないんである!」と、ときに厳しく他の本を取り上げて批評しているのがたいへん面白い。

 伊勢物語の第二段の物語が、高菜の覚えていたのとは違う解釈だった。

 まめ男(実直な男)が、姿だけでなくセンスも優れた女と「うち物語らひて」、家に帰ってきた。男はそこで歌を詠む。

 おきもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ

 この「おきもせず寝もせで夜をあかしては」の部分の解釈について、「昼間にちょっと会話することのできたアナタのことを考えていたら夜も眠れず、寝不足でぼんやりと春の雨を眺めることになりました」という解釈のものがあるそうな。高菜はこの解釈で覚えてた。憧れのあの人と会話できた。それを喜び、もっとアナタに近づきたいと願う、ウブな男のことが描かれた物語だと思っていたのだ。

 でも、借りてきた本によるとその解釈は間違っているそうな。「おきもせず寝もせで夜をあかしては」とは、この男と女が懇ろな関係になり、男女の契りを交わしたときのことを表しているそうな。そうして愛をはぐくんだ後、家に帰り、「昨日の夜のできごとは夢だったのだろうかボヤ~ン」とボンヤリ春の雨を眺めている。これが正しいのだ! と、本に書いてありました。

 な、なるほど。

 つまり昨日の夜、二人は起き上がったり眠ってしまったりはせず、ずっと一緒に横になって、キスしたりなんやらしたり、愛を囁き合ったり、ときには男が女の二の腕をプニプニして「むふふ、二の腕、おっ○いと同じ柔らかさ。むふふ☆」「もうイヤン☆」なんて言いながら過ごしたに違いない。そうしてことに及んだ後の朝、春の雨を感じて夢うつつな気持ちになっている様が描かれていたのだな。「うち物語らひて」の解釈は、「ちょっと世間話をして」ではなく、「男女の契りを結んだ」に他ならない! まめ男ゆえに、女性と話をするのが恥ずかしくて「世間話しかできなかった」などという解釈はナンセンス! まめ男は男女の愛に「まめ」だったのだ! (「まめ」は、「実直」だとか「誠実」だとかいう意味だそうです)

 と書いてあった。(もう少しガクジュツてきに書いてあったけれどね(^^;)

 情事のあとに眺める春の長雨か。平安時代前期、そのことを書き記した彼らが感じていた情感は1000年以上もあとの高菜らいすにもなんとなく感じ取ることができるような気がしてきました。古典ってたまに大人な出来事も出てくるのだ。幼稚であった高菜らいす、そりゃ中学生のときにはピンとこないわー(笑)

 『伊勢物語』は後の人々によって加筆修正された箇所がいっぱいあるそうです。「作者は複数」と考えるのが妥当だとか。「そこに注意しながら読まないとだめだぜ」と書かれていました。前後でつじつまの合わない部分、あるいはつじつまを合わそうと改編された部分、そういう部分が散見されるそうな。印刷技術がなかった時代、写筆するしかなく、その際に変化した部分があるんだって。加筆した人はまさか1000年以上もあとに自分が書いたものがそのまま伝わってしまい、一級資料になるなんて思わなかったろうな。また、各地の伝承物語なども取り入れているフシがあるそうで、ある一人の作者が書いたものとして読むのは難しいのですって。

 タイトルにもなっている「伊勢」が舞台の段を読みたく思うのですけれどなかなか進みません。有名な折句である「かきつばた」の歌も「東下り」の段に出てきていた。折句というのは、ようは「あいうえお作文」みたいなものなのかも。テレビのバラエティ番組で、ときどきお題として出てくるよね。借りてきた本の著者はカキツバタの歌を絶賛していました。いつも思うのですけれど、和歌ってダジャレが好きですよね。しかし、使ったダジャレが別の箇所のダジャレとシンクロしていたりして、巷で聞く安易なダジャレとは別格のように感じますけれど。

 陸奥国へゆく段では、男女の愛を「桑子(蚕)」になぞらえ、男がはやばやと去ろうとするのは鶏の鳴き声のせいだと思って「憎きニワトリを水槽に沈めてやりたい」という歌を詠む女が出てくる。そんな女に対して男が拒絶の意思をやんわり歌に返したのを、どう勘違いしたのか、喜ぶんである。都流に過ごせたのが嬉しかったのだろうか。高菜にはよくわからん。蚕やニワトリでなんとか歌を詠もうとする姿がなんともいじましく、可愛らしくあるようにも思いました。世が世なら「天然系」としてちやほやされたんではなかろうか。そうそう、隅田川の都鳥(ユリカモメだったとされている)も出てきた。「京には見えぬ鳥」と書かれていたよ。いまでは京でも見られる鳥になりました。

 読み進めていくと男がどんどんプレイボーイになっていく。

 この本の出版されたのが昭和50年となっていた。30年以上も前のことである。著者が訴えた他の本への批判はその後改善されたのだろうか。それとも別の資料が新しく発見されて新説が生まれたのだろうか。そういう点も今後確かめてゆきたいものです。(ある段の解釈について「40年連れ添った夫婦だったのにある日妻が出て行って尼になってしまう。それだけ連れ添った二人が別れてしまうというのは考えにくいのではないだろうか? 40年ではなく、14年なのではなかろうか?」と著者が考察している部分があった。昭和50年頃には「熟年離婚」という言葉は無かったのかも。もちろん「熟年離婚」が増えているかどうかなんて高菜は確かめたことがなく、マスコミ様がただ騒がせているだけだという可能性もあるし、なんとも言えないところなのですけれど)

 『伊勢物語』が面白いというよりも著者の考察部分が面白い本なのかも。


ペーパークラフトに惹かれて [ぬるま湯大海嘯]

フクジュソウ.JPG

 フクジュソウに間違いありません。

 なぜならそばにあった看板にそう書いてあったからです。これがフクジュソウか。キンポウゲ科の植物らしい葉っぱの形をしています。昨日に引き続き去年の3月に撮影したものです。3月末というのはフクジュソウの花期から少し外れているようで、京都府立植物園の動画サイトで探したところ、フクジュソウの紹介されていた動画は2月7日に更新されており、つまり1月下旬に植物園へゆけば花開いている姿が拝めるのではないと予想をしました。ぜひ、確かめてみたいと思います。

 フクジュソウは、お正月に飾り花として用いられることが多く、そういう場合には促成栽培されたものが使用されるのだとか。お正月に花を飾るという習慣に高菜らいすはあまり接したことがなく、促成栽培されたものもいつか眺めてみたいものだ。ただ、思い起こすに、実家でお正月になると床の間にお花が活けられていたような記憶もあります。おばあちゃんが花道の先生をしていたからでしょうか、母上と一緒になって飾っていたような。その中に、もしかしたらフクジュソウも混じっていたのかもしれない。

 どれだけ沈思黙考しても思い出せない。
 高菜は、しっかりと見ていなかったのだろうな。

 突然のご報告になるのですけれど、いつも高菜らいすが空想する景色のひとつに「役場の事務風景」というものがあります。そこでは新人技術職の青年がお仕事を頑張る想像を繰り広げて楽しんでいるのですけれど、その職場風景がどうやら高校のときの職員室をたよりに構成されている風景だということに気がつきました。それだけの話なのですけれど、わりと自分にとってはびっくりな発見だったので報告申し上げた次第であります。

 おお、藤井大臣の辞意を受け入れたのか。

 テレビニュースを見ながらウェブログを更新しています。シーシェパードなる環境過激派の新型船が、日本の水産庁の調査捕鯨船に衝突、大破したニュース放送時に、速報で藤井大臣のことが。後任には菅さんがあたられるのだとか。体調が優れなかったとか、それ以外にも理由があったとかなんとか。とりあえず、お疲れ様でございました。ごゆっくり休まれんことを。

 シーシェパードの船の形に目がいってしまう。真っ黒なボディに威圧的な印象を受けました。発見されにくくするために真っ黒なボディにしたのだろうか。それとも守る対象である鯨の体色を意識したのか。時速75キロも出るんだって。高菜らいすの環境団体へのイメージがまたひとつ変化します。自前の船で調査捕鯨の場所までやってくるなんて、お金持っているのだなあと思ったりしました。ネットでちょいちょいと検索してみると、政治家や俳優、音楽家などもこの団体を支援しているのだとか。なるほど、支援があるから船を造ったりできるのだろうな。暴力行為を行ったこともあり、国際手配されている人物もいるのだとか。

 衝突事故に関して「こちらが停止しているときに向こう(調査船)のほうからぶつかってきた。今回は残念なことになったが、ますますクジラを守る意欲が出た」とシーシェパード側は言っているそうです。水産庁の船員の方々が無事で良かったです。調査を終え、無事に帰ってこられることをお祈りします。

 そういえば護衛艦くらまとカリナスターという貨物船の衝突事故がありましたけれど、あれってその後どうなったんだろう。気になったのでまたネットでちょいちょいと調べてみたところ、2010年から9億4000万円をかけて修理される予定なのだとか。退艦の近づいている旧艦らしかったのでそのまま廃艦かと思いきや、修理することになったのだなー。なるほど。そして例の如く、ウィキペディアの編集の仕事の早いことに感心しきりであります。

 そんなこんなでした。


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