魔球フェルマータ習得 [ぬるま湯大海嘯]
おはようございます。
昨日は早めにお布団に入りました。10月に入ってからというもの仕事もプライベートも慌ただしい時間が多かった。今日と明日のお休みを利用して生活リズムを元に戻しておきたい。そのようなことを思いつきまして早めの就寝となったのでした。そしたら朝6時半に目が覚めちゃった。これはいかん、もう少し寝ないと。たくさん寝ることができないなんてまるでご老人のよう。高菜らいす、まだまだ若いんだいっ。
おはよう。
午前8時前に目が覚めました。怖い夢は見なかった。このあいだなんて、高菜らいすの作った仕事用の資料が全て訂正されるという恐ろしい夢を見ましたのだ。自分に自信がないことの表れなんでしょうか。それとも仕事に真剣にとりくんだためにそのような夢を見たのでしょうか。たぶん両方のような気がする。頑張ったんだわさ。
ふう。
『文章は接続詞で決まる』(石黒圭著/光文社新書)という新書を読みました。通勤時間、職場のお休み時間、相変わらず読書をしております。面白いものでお外で本を読むと内容にあまり興味が持てなくとも、とりあえず他にすることがないのであって、読了することができてしまいます。あ、『文章は接続詞で決まる』が面白くなかったと言っているのではありません。この本を読んでいくつか思いついたこともあったんです。
簡潔に言いますと、多くの接続詞がどのように使われているかが紹介されている本でした。本の題名を『接続詞用法用例』としても良かったのではないか。しかしそれでは本のセールスは延びないのでしょう、ここはインパクト勝負、『~決まる』などと強気に出ることになった編集者会議の模様が脳裏に浮かびます。(文章は接続詞【のみ】では決まらない、と高菜は思う。この本は、接続詞も大切だよ、と言っている本だった。そこに共感。接続詞を予め想定しておいたら、後はそこに内容を放り込むだけで、あーら不思議、ちょっとしたまとまった文章が出来上がってしまうのだー。)
いくつか気になった箇所について思ったことを少し。
「言語というものは、音声であっても文字であっても線的な構造(線条性)を備えています。書き言葉の場合、文字列が行末までくると、次の行の行頭に移りますので、一件表面的に見えるかもしれません。しかし、改行が存在しない場合を想像すれば、本来延々と続く一本の線のような構造をなしていることが、すぐにわかるでしょう」(p46)
文章というものは、ただシーケンシャルである。なるほど。その通りだよな。うんうん。と思った高菜らいすなんであった。小説を読んでいて、3行目を読んで次に8行目を読み、それから5行目に戻る、というような読み方を高菜らいすはしないんである。(やったことはないけれど、スーパー速読法などはシーケンシャルであることをすっとばす方法なのかもしれないな。) 文字を順番に追ってゆきながら読み進めている。そういう情報処理の仕方にはたぶん何か特性があって、それを利用しない手はない、と思いつつ、良いアイディアはまだ浮かんでいない高菜らいすなのでありますけれど。
手元にあるアイテムとしては「シーケンシャル」「文字」「文章」「コード」「物語」などでして、これらを組み合わせていけば何かヒントが得られるかもしれない、一大創作論に気がつくかもしれない、などと思っています。
本には夏目漱石『それから』の引用があったり。言われてみればこれ、タイトルが接続詞なのだよなあ。夏目漱石の小説をあまり面白いとは思わない高菜らいすなのですけれど、たしかに夏目漱石は巧みな【文筆家】であったということには納得できそうです。できそうですけれど物語の方は……うーん。
そうそう、この本は基本的に様々なところから文章を引用して接続詞の説明をしてある。この接続詞はこの用法にしか使わない、ということもなく、「これこれこういう使い方もあるよ」と紹介されていました。二重に接続詞を使うときの注意、なんてものもあった。高菜らいすにとっては好感触。ありがたし。学校の教科書もこうだったらよかったのに。(註1) お恥ずかしながら告白いたしますと、学生時代の「文法」の教科では赤点常習犯でした。現代国語、古典、漢文なども、他の教科と比べると低い点数だったように思います。(偏差値的にも低かった) いまでもコンプレックスがあるんだよな、国語教科全般。
乗り越えたいと思います。
あとがきにはカラダバランス飲料「DAKARA」についても書かれていました。漱石の『それから』についても。接続詞はそれ単体では意味を持てないとあった。なるほど。読んだ人が頭の中で何かしらの意味を勝手に考える。これが面白いなあなんて。そこでふと思い出したものがある。京都市内にも、同じ効果を狙ったものがあった!
『というわけで、』という名前のラブホテルがあるのだ。
というわけでって、どういうわけだー!(笑)
本のあとがきを読んでこんなことを想像していた高菜らいすでありましたー。
さてさて。数日前にようやく筋肉痛から解放されました。ウェブログにも書かせていただいたとおり先週の土日は大変忙しかった。それでは人間忙しかったら筋肉痛になるのか。それは普遍的な事柄なのか。ノー。ならない。ではなぜ高菜らいすは筋肉痛になったのか。理由は簡単でして忙しく走り回っているあいだ、ずっとギターケース及びギター小物袋を持っていたからです。
ギターケース自体は近年開発されたスーパーライトケースというものを使用しておりまして、ギターを守るための強度は維持したままで、軽量化されたケースなのであり、それほど重たくはない。せいぜい手の平が痛くなるだけなんであります。それなのに大げさに筋肉痛になったことを喧伝するということは、高菜らいす誰かにかまってもらいたいカマッテちゃんなんではないか。
当たってる(笑)
かまってくれー(><)
違うんだよー。演奏に必要な物は他にもたくさんあるんだよ。例えば譜面台や足台。式場には通常譜面台というものはほとんどと言っていいほど置いてある。だから持って行かなくても良かったのだけれど、しかし万が一ということもある。倉庫にしまってあって、すぐに取り出せなかったら、リハーサル中に譜面台が使えないってこともある。お友達と相談した結果みんな自分の譜面台を持っていくことに。カバンはずしりと重たくなるのだ。足台もずしり。
さらに、クロス、滑り止め、チューナー、メトロノーム、予備の電池(3種類)、音叉、替えの弦、つめヤスリ、サンドペーパー、つけ爪、接着剤、ハサミ、クリップ、セロハンテープ、楽譜、誰かが譜面を忘れてくるかもしれないのでみんなの分の譜面コピー一式……となりまして、大変嵩張るのであります。
そして筋肉痛になった。
これまで結婚式に楽器を持っていかなかったことがなく、演奏をしない結婚式というものがどんなものなのかよくわかりません。気楽に過ごせるのだろうか。いや、案外、暇を持てあますような気もします。そしてやっぱり演奏はしたいんだよなー。
わかっております、演奏なんてそれほど重要ではないことを。
演奏中にもみんな御飯を食べたり小声でお話をしたりするしね。「これはめずらしい!」としっかりこっちを見てくれる、耳を傾けてくれる人もいる。いろんな人がいて面白いのだ。それよりも何よりも高菜らいすの個人の都合、人前で演奏することの緊張感、これがたまらん。リタルダントを上手にかけ、奏者全員で次のタイミングをあわせるときの呼吸というか、体の動きを読むのが、とってもどきどきする。ぴったり合うと、「おっしゃ!」となる。そしてまた演奏したくなる。人と演奏を合わせることの楽しさったらないんである。
自己満足の範疇ど真ん中なんである。わはは。
そうは言ってもそれなりの自信というか、練習のタマモノというか、人を感動させるような演奏などには到底及びもつかないことはわかりつつ、邪魔にならないBGMくらいの演奏はできているんじゃないかとは思っていたりもするのだ。アンサンブルのとき、ギターという楽器は決まって伴奏楽器になっちゃう。軽音バンドで言えばドラムとベースを兼任していると言い換えてもよいのではなかろうか。乱れないテンポ、響く低音。これが重要だ。とかなんとか思っていた時期があって、メトロノームがトモダチ、と言ってはばからない時期があったものなのだー。
安定した伴奏。
楽器だけでなく、高菜はそんな人生も目指しております。
【註1】
学校の教科書にも引用文や例文はあったような気がする。教科書のせいにしてごめんなさい。高菜が怠惰なだけでした。反省するならサルでもウキキ。いまから勉強することで青春の文法を取り戻したいと思います。






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